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第9話  限界の手前

last update publish date: 2026-09-02 19:00:23

 木曜日の深夜、午前二時。

 沙耶はパソコンの画面を見つめたまま、まばたきをした。

 痛かった。

 まばたきするたびに、目の奥がじりじりと痛む。乾いた眼球に瞼が張り付くような、不快な感覚。目薬を差してから三時間が経っていた。手元のボトルを取って、もう一度差す。冷たい液体が目に広がって、一瞬だけ楽になる。でも画面に視線を戻すと、すぐにまた乾いていく。

 もう少し。あと少しだけ。

 沙耶は自分にそう言い聞かせて、マウスを動かした。

 神崎の案件のコンセプト修正、彩乃のサイト構成案、カフェのロゴ最終調整、そして佐伯のホームページ初稿。四つが同じ週に重なった。それぞれ単独なら余裕がある。でも四つ同時は、思っていたより遥かに重かった。

 月曜から今日まで、平均睡眠が四時間を切っていた。

 佐伯恒一さえきこういちからのメールが来たのは、先週の月曜日だった。

 件名は「ホームページ制作のご依頼」。

 開いた瞬間、沙耶の胸に重たいものが落ちてきた。

 理由はうまく説明できない。ただ、文面から滲み出る空気が、最初から沙耶の何かを萎縮させた。

岸谷さん、ご紹介でご連絡しました。

飲食店のホームページを作ってほしいんですが、

予算は三万円でお願いします。

納期は二週間以内で。

それと、修正は何度でも対応してもらえますよね?

プロなんだから当然だと思いますが。

佐伯恒一

 三万円。二週間。修正無制限。

 一行ずつ読むたびに、胸の重さが増した。

 断るべきだった。読んだ瞬間に、沙耶の中の何かがそう言っていた。条件が合わない。それだけじゃなく、文面の空気が合わない。

「プロなんだから当然」という一文が、特に引っかかった。

 でも沙耶は、断らなかった。

 紹介だから。

 それだけの理由で、受けてしまった。紹介元に迷惑をかけたくない。断ったら印象が悪くなる。そういう計算が、一瞬で「断る」という判断を上書きした。

 「承ります」と返信した後、沙耶はしばらく画面を見ていた。

 また、やってしまった。

 そう思ったけれど、もう遅かった。

 翌日には彩乃との打ち合わせがあった。その翌日には神崎への修正データを送る約束があった。カフェのロゴも、今週中に最終案を出さなければならない。そこに佐伯の案件が加わった。

 頭の中でスケジュールを組み直した。削れる睡眠を削って、隙間に詰め込んで、なんとか全部収まる計算にした。

 なんとかなる。いつもそうしてきた。

 でも今週は、その「いつも」が通用しなかった。

 深夜二時半。

 神崎の修正データを書き出して、フォルダに保存した。明日の朝、もう一度確認してから送る。今の状態で送るのは怖い。思考が鈍っているのが、自分でわかった。

 考えが、まとまらない。

 いつもなら三十分で終わる作業が、今日は二時間かかった。同じ箇所を何度も見直して、それでも合っているか不安になって、また見直す。集中力の糸が、細くなっている。引っ張るたびに、切れそうになる。

 椅子から立ち上がろうとして、少しふらついた。

 壁に手をついて、沙耶は止まった。

 あ、これはマズい。

 頭ではわかった。身体が先に教えてくれていた。でも──まだやめられなかった。彩乃の構成案が途中だった。佐伯の初稿もまだ半分しかできていない。カフェのロゴも、最終確認が残っている。

 全部、自分が引き受けたことだ。

 全部、自分がやらなければならない。

 誰かに「大丈夫?」と聞いてほしかった。

 ふとそう思った。

 今この部屋に、沙耶の状態に気づいている人は誰もいない。達哉は寝室で眠っている。起こして「疲れた」と言ったとして、返ってくる言葉は想像できた。「自分で受けたんでしょ」か、「だから言ったじゃない、フリーランスなんて」か。

 どちらも、今の沙耶には要らない言葉だった。

 聞いてくれる人が、今の私の周りに──

 その先を、考えるのをやめた。

 水を飲もうと思って、キッチンへ向かった。冷蔵庫からペットボトルを取り出して、コップに注ぐ。飲み干して、もう一杯。冷たい水が喉を通って、少しだけ頭が冷えた気がした。

 窓の外は真っ暗だった。

 マンションの向かいの建物も、街灯だけが灯っている。世界中で自分だけが起きているような、深夜の静けさだった。

 私、何やってるんだろう。

 声に出さずに、そう思った。

 責める気持ちではなく、ただ純粋に、疑問として。深夜に一人でキッチンに立って、目が痛くて、頭が動かなくて、それでもまだ仕事に戻ろうとしている。誰かに頼むこともできず、断ることもできず、抱えることしかできない。

 これが、今の私だ。

 そう思ったとき、不意に涙が出た。

 泣くつもりはなかった。泣く理由も、特にない。ただ──疲れた、と思ったら、目から水が出てきた。乾ききった目から、それでも涙が出てきたことが、なんだか可笑しくて、沙耶はキッチンで一人、泣きながら少し笑った。

 金曜日の朝、達哉を送り出してから、沙耶はソファに座った。

 パソコンを開くつもりだったのに、体が動かなかった。

 ただ座っていた。カーテンの隙間から朝の光が入ってきて、埃がゆっくりと舞っているのが見えた。いつもは気にしないものが、今日は妙にくっきりと見えた。睡眠不足のせいで、感覚が変になっているのかもしれない。

 スマートフォンを見ると、佐伯からのメールが来ていた。

岸谷さん、進捗どうですか。

依頼してから一週間経ちますけど、

まだ何も来てないんですが、大丈夫ですか。

納期守ってもらえますよね?

プロなんだからそのくらい当然ですよね。

 沙耶はメールを閉じた。

 返信する言葉が、出てこなかった。いつもなら「申し訳ありません、現在進めております」と即座に打てた。でも今日は、その言葉が出てくる前に、別の感情が来た。

 怒り、ではない。

 疲労、でもない。

 虚しさ、だと思った。

 一週間で進捗を求めるメール。納期を守れるか確認するメール。「プロなんだから当然」を二度目も使うメール。そういうものを受け取るたびに、少しずつ何かが削れていく。達哉に削られて、佐伯に削られて、自分でも削って。

 残っているものが、今日は少ない気がした。

 昼過ぎ、沙耶は母に電話した。

 理由は特になかった。ただ、声が聞きたかった。

 「沙耶、どうしたの、昼間に」

 「なんとなく」

 「声、変よ。疲れてる?」

 美和には、いつもすぐわかる。

 「……少し」

 「少しじゃないでしょ。ちゃんと寝てる?」

 沙耶は少し黙った。

「あんまり」

 「もう」

 美和の声に、呆れと心配が混ざった。

 「仕事、抱えすぎじゃないの。沙耶は昔からそうなんだから。全部自分でやろうとして、全部ギリギリになって」

 「わかってるんだけど」

 「わかっててできないのが一番困るのよ」

 沙耶は苦笑いした。

 「そうだね」

 「ねえ沙耶」

 美和の声が、少しトーンを落とした。

 「断っていいんだよ、合わない仕事は」

 「うん」

 「達哉さんは、何か言ってくれてる?」

 また、少しの間があった。

 「……特に」

 「そう」

 美和はそれ以上聞かなかった。でも「そう」の一言に、全部入っていた気がした。

 「とにかく、今日は早く寝なさい。仕事は明日でもできるから」

 「うん」

 「約束よ」

 「約束する」

 電話を切った後、沙耶はソファに深く沈んだ。

 母の声が、じわりと目の奥を熱くした。泣くほどのことは何も言われていない。ただ「早く寝なさい」と言われただけだ。なのに──それだけで、こんなに胸に来る。

 心配してもらうのが、こんなに久しぶり

だったんだ。

 沙耶は目を閉じた。

 今日だけは、約束を守ろうと思った。

 その夜、沙耶は十時に床に就いた。

 達哉は「早いな」とだけ言って、テレビを見続けた。

 布団の中で、沙耶は目を閉じた。

 まぶたを閉じると、ようやく目の痛みが和らいだ。乾いた眼球が、暗闇の中でゆっくりと潤っていく。その感覚だけで、少し泣きそうになった。

 ちゃんと寝よう。

 明日、佐伯に返信する。神崎の修正を送る。彩乃の構成案を仕上げる。カフェのロゴを終わらせる。全部、明日の自分に任せよう。

 今夜だけは──今夜だけは、自分のために眠る。

 意識が遠くなっていく中で、沙耶は思った。

 断っていいんだよ、合わない仕事は。

 母の言葉が、眠りの向こうに沈んでいった。

 まだ、できなかった。

 でも──その言葉は、ちゃんと残っていた。

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